僕は前に「添乗事件簿-その1」で香港と北京の航空機で起こった事件(決して事件ではないんですけどね)を書きました。
これも古い話です。今回は喜界島への添乗の時に遭遇した大型台風の事件(決して事件ではないんですけどね)があまりにも脳裏に焼き付いていますので、ちょっと書かせて頂きます。
添乗員さんなら誰もが遭遇したであろう“天候でのトラブル”です。プロの方なら「そんなん、誰でも経験してるわ!」とおっしゃるかも知れませんが、喜界島で経験したある意味“本場の台風”はえげつないものでした。
この添乗はある大型百貨店の労働組合の旅行で、喜界島がその労働組合のスタッフの1名の出身地ということらしく、喜界島の夏祭りの時期でもあり地域の町おこしも兼ねて計画されたものでした。
旅行の詳細は下記の通り。
- グループ:大型百貨店・労働組合員の旅行(全国のお店から参加)
- 行き先:鹿児島県喜界島(奄美大島の東20kmのところにある島)
- グループの人数:約120名
- 日程:8月上旬出発の2泊3日
- 添乗員:僕を含めた3名
行く2日前に「台風が発生して日本に近づいてくる」と情報は入っていましたが、そのスピードは遅くて“おそらくこの旅行中は大丈夫だろう”というオーガナーザーの判断で旅行はGOされました。
奄美大島で全国から航空機で来た参加者が合流し、港からは大型のクルーザー(150名乗り)を貸し切って喜界島へ向かいます。天気は最高で、波もなく、クルーザーは快調に喜界島へ。
船内では山下達郎の夏の歌が流れていて、澄み渡った景色と本当にマッチして「最高や~。ええ添乗や~!」とこの時の気分は絶好調でございました。
150名乗りのクルーザーで120名+3添乗員ですから、船は人数的には余裕があるのですがそれぞれの荷物が意外に大きく、ちょうど僕たち添乗3名は船外のデッキに乗ることになりました。
この時はあまりにも天気が良く、波もなかったのでデッキで何の問題もなく、何ならトビウオなどが横を飛ぶのも見れて「デッキ、最高やん!」とさえ思っていました。
到着した喜界島は本当に何もない島でしたが、海の色がめちゃくちゃ綺麗だし、その田舎具合が都会育ちの僕たちには本当に美しく見えたものです。まさにドラマ「Dr.コトー」の世界。
到着した1日目は夜の夏祭りも大盛り上がりで無事に終了。2日目もいくつかのオプションで設定された観光を皆が堪能されました。
順調だったのはこの夜まで・・・。
天気予報で“台風のスピードが急に速くなった”と流れると、オーガナイザーの責任者は「もしかしたら、明日の帰りはやばいのか?」と真っ青になりましたが、この時点ですでに後の祭り・・・。
クルーザーの船長に確認をすると、通常は波が3m以上になると船は出さないということで「明日はダメだねぇ」と軽く言う船長さん。
それを聞いたオーガナイザーの責任者の顔色はさらに悪くなり、真っ青を通り越してドス黒い顔になっていたような気がします。
僕個人的にはこれはあくまでも天候のことで、催行の判断も労働組合の方で判断したことなので、僕たちにはどうしようもない事象ということであまり気にしていませんでした。
「あ~あ、アカンやん!」ぐらいにしか正直思っていなかった。
本来なら旅行の最終日となる日がきました。 朝からすでに風がかなり強く、奄美大島からの飛行機もすべてフライトキャンセルになっています。
もちろん、それ以上に波が余裕で5mを越えているような状態で、僕たちはすでに明日の移動に向けて航空機の手配などで電話をしまくるしかありません。
確か、日付は8月10日頃でお盆前の帰省などもあって、航空機の確保はかなりの難作業でした。大阪の営業所でも上司達が必死で航空券確保に尽力してくれていて、空席が1席出ればそれをすぐに押さえていくという地道な作業。
僕たちは目の前にいる120名のお客様のフォローもしないといけないので、航空券の確保は大阪営業所に任せることにした。
この時の気持ちは「まぁ、なんとかなるやろ!」
喜界島の一番大きい宿(民宿と旅館の間くらいの大きさ)の主人が、「港まで様子を見に行くので一緒に行くか?」と聞いてきたので僕ともう1人の添乗員2名で主人の運転する車で港へ向かう。
港には漁業関係者の方達が使う“小屋”があって、そこの中に入る。車から小屋まで2mくらいの距離だが、その移動だけで全身ビショビショ・・・。風も強烈だ。(この時点で風速は40mオーバー)
ご主人はその小屋にある電話を使って、関係者に色々と状況報告などを誰かにしている。僕たちはその横で窓から海を見ていると、高波と強烈な風で一艘の小さな船が小屋にいる僕たちの目線の上1mくらいのところを海から陸に向かって飛んでいくのが見えた。
ボク:「○○さん、船が飛んでいきましたでぇ!」
電話が終わったご主人に窓の向こうを指さして、僕は少し興奮気味で伝える。
ご主人:「ホントだねぇ~。こりゃ、ここにいると危ないから急いで戻らんとこりゃ死んじゃうよ!」
とご主人はちょっと笑いながら僕たちに言った。 これが本気なのか冗談なのかは僕たちにはまったく分からない・・・。
慌てて宿に戻る車中でご主人が「こりゃ、もうすぐ電気も切れるよ」とも言った。
ご主人の言ったとおり、宿に戻って1時間後くらいに島全体が停電になる。停電になって初めて色々な不自由に直面することを知ったのでした。
まず、一番の苦労は“トイレの利用”。 電気がないとトイレって水が流すことが出来ないんですね。
夜になって、大阪の上司から電話がかかってきた。
上司:「飛行機の予約なぁ、50席ほど押さえたけど発券せえへんからANAもJALも次から次とどっさり落としていきよったわ! 今は1席も残ってない」
上司はしっかりとした口調で僕に告げる。
ボク:「・・・。 それはえらいことですね・・・。」 次の言葉は出てこなかった。
上司:「言うてても仕方ないから、取りあえずJAL、ANA、JASの営業に航空券がないことを言うとくから、奄美大島と鹿児島に分かれて順番に乗せていくしかないでぇ。あとは任せるわ!」
上司はさらりと言う。 それに対して「あなた、簡単に言いますけどね!」と思ったが、上司はかなり偉い人なので口にすることもせずに僕は「失礼しま~す」と静かに電話を置く。
航空券もお金もないのに乗せてくれるのか?? と言う疑問はもちろんあったが、今それを考えても答えが出るわけでもないので考えるのをやめる。
実際にはここから、全員の帰る便の予定(あくまでも“予定=希望”だけ)などを入れたりして朝方まで作業は続いたが、あとは喜界島から奄美大島まで船が出るのかどうかだけだ。
早朝、全員が船の出る喜界島の港に行く。百貨店は全国でオープンしているのに、この120名は2日間も休んでいる状態なので、「絶対に帰る」という気持ちが全員の顔に表れていました。
港に行くと、台風は去ったがかなり波が高い。
船長:「本当なら、この波だと絶対に出さないけどあなた達、絶対に帰りたいんだろ。かなり揺れから覚悟しといた方がいいよ」
船長はかなり腕のいい人だと感じる。 無理矢理、船を出してくれる船長に感謝!
往路の船でもキャパの関係で、僕たち3名は船内には入れず“デッキ”に座っていたが、復路も各自荷物も増えたりしているので、もちろん僕たちはデッキに座る。
今でもこの奄美大島までの船の航行は記憶にある。 その海の様子はまさに地獄絵図のようで、初めて乗り物で“死”を覚悟したほど。
最大でこの日の波の高さは“8m”。 8mという波の高さだと、デッキからは海と海の間に大きな穴があいているような状態が見える。船はそこに頭からその穴に落ちていくようなイメージ。
僕たち添乗員3名は海に落ちないように、必死で椅子の手すりにしがみついた。目は開けるのも怖い!
なんとか奄美大島に船は到着したが、船内にいた120名のお客さん達はほとんどが船酔いで顔色もかなり悪い。 僕たち3人は恐怖で酔う暇もなく、逆に港に無事に着いたということで顔は晴れ晴れとしていて好対照な状況でした。
じゃんけんで僕が一番ハードな鹿児島空港に1人で行くことになった・・・。
“グー”を出した自分の右腕を見ながら「なんで、グーを出したかなぁ・・・」と天を仰いだか、決まったものは仕方ない。
僕は奄美大島から鹿児島空港の飛行機の中で軽く足をほぐしながら、心の準備をする。
そして、鹿児島空港へ着くや否やJAL、ANA、JAS3社の空港の一番偉いさんに挨拶をして事情を説明し、「必ず、大阪に戻ったら航空券を事後発券しますから!」といって、協力を求めた。
さすが、大手の航空社さんで3社とも全面的な協力を快く引き受けてくれて、結果的に夕方までかかって全員無事に帰ることができた。
今でもこの鹿児島空港での作業の記憶があまりない。たぶん・・・ですけど必死だったんだと思う。
ただ覚えているのは鹿児島空港のJAL、ANA、JASの各カウンター間を走り回ったということ。(かなりの距離を走った)
それと「空港の床は革靴スベるなぁ~」ということ。ツルッツルでした。
僕はあまりにも添乗で悪天候に合うので、以前にも上司から「一度、お祓いにいったほうがいいでぇ!」と言われていました。
今回のことを受けてさすがに家に帰ったら大阪の堺にある「方違神社」に行こうと心に決めたきっかけでございます。
堺にある方違神社は「方角の神様」で、新居や引っ越しの時に関西の人はこの神社に来てお札をもらって家に置いています。(若い人は今は行かないかも・・・)
「方角の神様」なので、「旅行の神様」的な形でも知られています。昔はお年を召した方など海外旅行に行く前にここにお参りにきて、その時に買ったお守りを持って旅行に行ったものです。
方違神社にいけば、「少しは天候もマシになるだろう!」と能天気に思う僕。
しかし、その後も結局は“雨男&嵐男”は全然変わることはございませんでした。ざんね~ん!!